翻訳と辞書
Words near each other
・ 伊藤正之
・ 伊藤正二郎
・ 伊藤正信
・ 伊藤正博
・ 伊藤正司
・ 伊藤正孝
・ 伊藤正宏
・ 伊藤正己
・ 伊藤正康
・ 伊藤正徳
伊藤正徳 (競馬)
・ 伊藤正徳 (軍事評論家)
・ 伊藤正敏
・ 伊藤正樹
・ 伊藤正樹 (陸上選手)
・ 伊藤正次
・ 伊藤正男
・ 伊藤正男 (プロレスラー)
・ 伊藤正男 (技術者)
・ 伊藤正男 (生理学者)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

伊藤正徳 (競馬) : ミニ英和和英辞書
伊藤正徳 (競馬)[いとう まさのり]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
競馬 : [けいば]
 【名詞】 1. horse racing 
: [うま]
 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) 

伊藤正徳 (競馬) : ウィキペディア日本語版
伊藤正徳 (競馬)[いとう まさのり]

伊藤 正徳(いとう まさのり、1948年10月22日 - )は日本中央競馬会調教師騎手
1968年に騎手デビュー。1987年の引退までにラッキールーラによる東京優駿(日本ダービー)優勝、メジロティターンによる天皇賞(秋)優勝という実績を挙げた。1988年より調教師として開業。GI競走に優勝した管理馬に1999年の安田記念マイルチャンピオンシップに優勝したエアジハードがいる。またJRA通算1447勝を挙げた騎手・後藤浩輝は門下生である。それぞれ騎手・調教師を務めた伊藤正四郎は父、伊藤雄二は義兄〔。
== 経歴 ==
1948年10月22日、北海道に生まれる〔木村(1997)pp.35-40〕。当時、太平洋戦争後の混乱期であったこともあり両親は離れて暮らしており、父・正四郎は阪神競馬場で調教師として活動、母は静内町で美容室を営んでいた〔。正徳は母元で育っていたが、小学校卒業直前に正四郎が結核に倒れ、見舞いに駆けつけた病床で正四郎から「騎手にならんか」と誘われる〔。正四郎は間もなく死去。正徳はその遺言を容れて宝塚市に移ったのち、中学卒業後に中央競馬の騎手養成長期課程に第15期生として入所した〔。同期には後にいずれも騎手顕彰者となる福永洋一岡部幸雄柴田政人らがおり、後年この15期生は「花の15期生」と称される〔。
父の師でもあった尾形藤吉に所属し、1968年に騎手デビュー〔。徒弟制が色濃く上下関係が厳しい時代にあって正徳は兄弟子を差し置いて多くの騎乗機会を与えられた〔。同年秋にはフリートターフに騎乗して東京障害特別を制し、重賞初勝利を挙げる〔『日本の騎手』p.294〕。以後も毎年の重賞勝利を重ねた。10年目の1977年にはラッキールーラで日本ダービーを制覇。これは1938年にトクマサで同競走を制していた正四郎との史上2組目の親子制覇となった〔。
1981年9月27日、師の尾形が89歳で死去。その約15分後に正徳はメジロティターンセントライト記念を制し、尾形最後の重賞勝利を挙げた。正徳がその死を知ったのは競走後のことであった〔『優駿』1987年9月号、pp.37-39〕。尾形厩舎は息子の盛次に引き継がれ、正徳とティターンのコンビは翌1982年に天皇賞(秋)を制覇。これは正徳、盛次、ティターンいずれもが父子制覇という珍しい記録を伴った〔。
1987年2月19日、調教師免許試験に合格〔『優駿』1987年4月号、p.158〕。同28日の騎乗をもって騎手を引退した。最終日に1勝を加え〔『優駿』1987年4月号p.106〕、通算2115戦282勝、うち八大競走2勝を含む重賞17勝。
管理馬房に空きがなかったことから藤吉の孫・尾形充弘の厩舎で1年を過ごし、1988年より開業〔。1990年に管理馬ウィナーズゴールドがクイーンステークスを制し、調教師としての重賞初勝利を挙げた〔『優駿』1990年11月号、p.154〕。1995年には関東4位(全国11位)の31勝を挙げ〔『優駿』1996年2月号、p.116〕、優秀調教師賞を受賞〔『優駿』1996年2月号、p.174〕。1996年にも34勝で前年に続き関東4位(全国6位)の成績を残し〔『優駿』1997年2月号、p.116〕、同賞を2年連続で受けた。1999年春、管理馬エアジハードが安田記念を制し、調教師としてGI競走を初制覇〔『優駿』1999年8月号、p.133〕。同馬は秋にもマイルチャンピオンシップを制し、同年のJRA賞において最優秀短距離馬最優秀父内国産馬の2部門に選出された〔『優駿』2000年2月号、p.34〕。
1992年に伊藤厩舎からデビューした後藤浩輝はデビュー3年でフリーとなり、1996年のアメリカ滞在以降に大きく飛躍し関東の有力騎手となったが、そのころより正徳の管理馬への騎乗はなくなり、何らかの確執を生じたとも噂された〔『優駿』2010年8月号、pp.67-69〕。しかしやがて両者は再び接近、2003年には後藤が騎乗するローエングリンが2重賞を制したほか、フランスのG1競走ムーラン・ド・ロンシャン賞で2着といった成績を挙げた〔。新人の頃から国際志向が強く、地に足のつかない後藤を正徳は幾度もたしなめていたが、その一方で後藤の英語学習の費用を負担するなど陰では応援していたのだという〔。
以後、師弟コンビではローエングリンのほか、エアシェイディでも2009年にアメリカジョッキークラブカップを制した〔『優駿』2009年3月号、p.108〕。しかし後藤は2012年より大きな落馬事故が重なったのち、2015年2月に自殺する。正徳は「俺より先に逝くのは卑怯だ、一番の親不孝だと言いたいが、それ以上に苦労していたんだと思う。(度重なる)怪我が原因とは思いたくないけど、張り詰めていたものがプツリと切れてしまったのかもしれない」などと語った。4月5日には中山競馬場で後藤を送る「メモリアルセレモニー」が開かれ、挨拶に立った正徳は「弟子を取るときに『歌のうまい子しか取らない』と言っていたら、本当にうまい子が来た。うちの馬ではあまり勝っていなくて、私は口うるさいだけの師匠でした。(後藤浩輝は)私の子供。こんなにいい子はいない。記録に残る騎手はたくさんいるけど、後藤は記憶に残る騎手でした」と語った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「伊藤正徳 (競馬)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.